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「いい人」を演じることについて

2012年05月31日 12:56

弘兼憲史さんの「いい人」をやめる男の成功哲学という本を友人が勧めてきたので読んでみました。

書籍の内容に関して簡単に考察してみる。

「いい人」を定義付けすることは難しいかもしれないが、よく読んでみると私達に思い当たる節がいくつかある。
社会人として「いい人」を演じる意義としては、上司が査定を行う際に、仕事の実績以外にも私情を交えることがあるためである。日本人はタテマエに弱く、他人は他人、自分は自分で行動することは潔さがあると捉えられる。
つまらない気配りや気弱さが原因で自分を嫌いになることがある。

そもそも「いい人」とは没個性的で特長が無い人であり、要は周囲の人からは「どうでもいい人」と思われている。
つまり、「いい人」と対話することでしびれたり、心を揺り動かすものが何もないのである。
しかし社会人としては最低限「いい人」である必要があり、肝要なことは「いい人だけど自己主張が強い」とか「いい人だけどあくがある」といった、だけど以下に続く部分である。

人間にとって幸福とは財産や地位ではなく、自分に賭けてみた、或いは自分を信じて夢中になってやってきたと思うことができれば幸福といえる。つまり自分の気持ちを偽ってまで周りに合わせようとすることが幸福かどうかを熟考する必要がある。

若いときから「いい人」という曖昧さに遣っているわけにはいかない。人には無茶でも断固としてやらなければならないことがある。インドへ行きたいと思ったら全てを犠牲にしてもいくべきである。20代の好奇心に歯止めをかけてはならない。

「いい人」から脱却し、人と同じ土俵にのぼらないすごさとは、孤独に耐えられるすごさであり、周囲とまったく別の発想をするすごさでもある。経営が行き詰まったときに社長と同じ考え方の人間、同じ価値観の人間を後釜に据えても突破口を切り開くことはできない。こんなときこそ、まったく別の価値観、別の世界を知っている人間が突破口となるのだ。

「いい人」ほど人の気持ちを逆撫でするという。激しい感情の世界に自分を投げ込むことができない。相手の怒りや悲しみの世界にもうわべで付き合うだけでその世界を感じることができない。あくまで同感のポーズを装う。

飲み会のお誘いで帰りたかったら帰ればよいのだ。「付き合いの悪いヤツだな」といわれることを恐れているのが「いい人」である。本音を言えば「じゃ」といって帰っていく同僚が羨ましいのだ。



「いい人」から脱却した人は一見バランス感覚が欠けているように思える。だがこのように考えるのは早計であり、自由に好き勝手に行動してきたことで、あっちやこっちにぶつかりながらバランス感覚を鍛えてきたのである。
おまけに世間が広い。職場の人間関係を切り捨てたぶんだけ、様々な世界に足を踏み入れている。頻繁に姿をくらまし、道草や寄り道を楽しんでいるぶんだけ自分の土俵が広くなっている。こういった世間の広さがバランス感覚を鍛える契機となり、土俵が広ければ簡単に足を割ることなく、少々押し込まれても踏ん張れる、奇抜なアイディアを生み出すことができる。

これに対して「いい人」は狭い土俵の中で慎重に動いてきた。俵の外にはみ出さないように注意してきた。でもそれではバランス感覚を養えない。気持ちも体も萎縮しているから、強く押されればたちまち転げ落ちる。「いい人」が備えたつもりのバランス感覚は、保身からくる用心深さにすぎない。

島耕作に知る 「いい人」をやめる男の成功哲学 (講談社プラスアルファ文庫)



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